日光例幣使街道〜街道宿ヒストリーウォーク〜
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■壬生義雄謀殺説?
義雄ノ区説(香渟(かぬま)聞書四)
天正十八年、豊関白東二、伐スル相之北条氏一ヲ也、義雄隷二ス北条氏一ニ、与二諸将一共二守二ル竹浦口一ヲ、北条氏滅シテ後チ、豊関白将下ニ改二封上セント義雄一ヲ、皆川山城守広照妬レム之ヲ、七月八日飲二マシム義雄二毒酒一ヲ、殺二ス之ヲ於酒匂川上一二、 「天正十八年、関白秀吉東征し、北条氏、北条氏に隷し諸将与に共に竹浦口を守る義雄共に征伐する成り。北条氏滅して後、義雄に関白秀吉改めて封せんと、皆川山城守広照之を妬み、毒酒を七月八日義雄に飲ましむ、匂川上に之を殺す。」
とあるように、ここでは皆川氏により壬生義雄は通説の帰陣途上での病死ではなく毒殺されたとある。
行動を供にしていた義雄の義父皆川広照は、戦の最中小田原落城前に豊臣氏に投降し処罰を免れ、秀吉から徳川家康に家人として預けられ近世大名として命脈を維持した。
■氏勝と義雄は同一人物ではなかった?
(香渟(かぬま)聞書四)にある記述でおおよそ大約すると「「壬生氏系譜」より、天正四年に殺害された綱房とし、その子義雄と氏勝を同一人物とした場合、年数の矛盾が発生する。今宮棟礼に天文三年綱房新造の事記載があり、そこに次男座禅院17歳とあるので、それより43年後の天正4年には少なくとも綱房は80歳余りとなっている。それを綱房の弟(三男)の徳節斎が殺害したとする。義雄を綱房の子とした場合、小田原攻めの際は80歳代となり、少々無理がある。
義雄の室 おこうの方が亡くなったのが寛永8年9月に死去(天正18年より41年後(戒名は「昌桂院源空宗本大姉」(香渟(かぬま)聞書一))とあるので、当時40前後とした場合夫の義雄が同年代とすると、綱房―氏勝―義雄の父子孫であると考えた方が自然なのではないか。」とある。
氏勝=義雄とすると「氏勝姉伊勢亀(皆川山城守広照の室)」(2)とあるが、広照息女おこうの方を妻とすると(側室の娘を正妻に娶る可能性は低い)叔父・姪の夫婦になり、飛鳥時代(叔父/姪同士・異母妹異母兄同士婚姻が皇族間ではなされた)ならともかくこの時代は近親婚は禁忌とされていたはずなので、ありえない。
ここは(1)の「綱房に三子あり。嫡女伊勢亀二男氏勝三女皆川広照の妻」に従い、同じく(2)にある綱房(意安)亡き後「二男氏勝壬生城を守らしむ」に従ったところ、綱雄=氏勝の図式ができる。嫡子惣領制は古い家なら現在でもあるが、名前の一字を当主から受け継ぎ長子又は嫡子が家督を引き継ぐ。義雄初名といわれる「氏勝」の「氏」「勝」は壬生家にはなく、宇都宮忠綱と同盟を結んだ綱重と違い同盟する気のなかった綱房が嫡子に北条氏の氏康以来の「氏」の一字を入れて帰順の意を表したということか?
この時代、上杉方(宇都宮)・北条方と中小国人領主達は目まぐるしく変わるそれぞれの要求に応じて変換している。後に代々の一字「綱」を入れた「綱雄」に改名したのではないか?
又、子の義雄は「義」の一字を足利義氏より賜り、父綱雄(氏勝)の「雄」を引き継いだのではないか。
■「綱長の大鰐口」の「綱長」は誰?
「綱長の大鰐口」(永禄2年1559年)の綱長は壬生家系図には見当たらない。ここで、1555年綱房没説をとり、嫡子綱雄が家督・壬生城を1556年に継いだとする。綱雄嫡子義雄は行年39歳より逆算して当時5歳。鹿沼城城主としては心もとない。成人するまでの中継ぎとして壮年期の昌膳を還俗させ、名を改めさせた。それが「綱長」ではないか?
当主の代々の一字「綱」と庶子「周長」「資長」と同じ「長」の一字をつける。「昌膳還俗して久野村での反乱時綱雄に誅され」(8)とあるが、周長・資長兄弟は庶子であるので、綱房隋身や宇都宮家臣として外に出している。昌膳は鹿沼の守りのみで、嫡子惣領制からいうといずれは近いうちに義雄に継承しなければならない。
そこで、日光神領内久野村(旧粟野町)で乱を起こしたのではないか。(乱の年代は《鹿沼市史》によると天文8,9年1539,1540年とあるが、当時昌膳は22,3歳。日光山で下方衆(諸坊を構成する山伏)とむすび、山内を二分する武力衝突を起こしたとある。
ここは昌膳の乱を起こした理由、乱の場所、乱の年代を特定できる史料の発見を筆者も待ちたい。)結果、嫡子惣領制にこだわる綱雄に討たれる事になったのではないか?
■徳節斉周長・資長は誰の子?
「後に筑前守綱重となりしが、これに三子ありて、長男を筑後守綱房といひ、二男は日光禅院座主となる、三男徳節斎は父の命によりて綱房に随身せり・・」(「皆川正中録」より)
「壬生綱重の二男壬生周長を宇都宮の家臣にして・・」
「宇都宮城が守る倉ヶ崎城を攻め、城主壬生弥次郎資長の首をはねてしまった。・・敗北した資長は義雄の祖父綱房の腹違いの弟で宇都宮の家臣となっていた。資長の兄壬生周長は・・」(「鹿沼の氏神 今宮神社の歴史」より)
「東路のつと」で永正6年(1509)連歌師宗長が鹿沼に綱重を訪ねている。その際ともに62の齢を重ねた互いの行く末を思いあい、再会を誓ったとあるが、当時(1509)父綱重が62歳で1523年(76歳)で没したとすると、子である綱房・周長・資長3人のうち、天正7年周長没・天正15年資長没とした場合、両者とも高齢(綱重60歳の子として、周長60代後半〜70代。資長70代。)になる。
但し、連歌師宗長が綱重の子や孫が広く栄えている綱重を言祝いで歌まで詠んでいるからには、周長・資長を綱重の子の綱房の子とした場合、綱重には綱房1男しかいないというのも解せない。
今後の新しい資料の発見により検討課題としたい。
■「伊勢亀」は義雄の姉?叔母?娘?
上総介義雄 初名氏勝 ・・・義雄ノ姉伊勢亀、皆川山城守広照ノ室タリ壬生氏系譜(香渟(かぬま)聞書一)
綱房に三子あり、摘女伊勢亀といひ、「皆川正中録」
義雄 息(娘) 伊勢亀(今宮御殿上葺棟礼)とある。
※ 通説では伊勢亀を子として記している。また、おこうの方の死去年月日は寛永17年、戒名は「正清院殿験名守公大姉」ともなっている。(参考資料「鹿沼市史」)
前述のように義雄の祖父が綱房ならば、義雄の叔母の名を、自身の娘に命名したということか。
■義雄が徳節斎を誅したのは何故?
「天正四丙子二月二十五日、綱房天神の社に社参ありしに、徳節斎家来に命じて、天神の森なる大杉の陰より綱房を射殺せしめたり、壬生城に在りてこれをききたる上総介義雄は大いに怒り・・」「皆川正中録」
下総守綱房 意安卒後二男氏勝ヲシテ壬生ノ城ヲ守ラシム 天正四年・・菅神祠ノ前ニシテ弟徳節斎ニ弑セラレル
上総介義雄 初名氏勝 天正四年父綱房ノ横死ヲ聞、急ニ鹿沼ノ城エ発向ス、此時徳節斎忽ニ凶テ・・「壬生氏系譜」
徳節斎が綱房を殺害し、綱房の子義雄がそれを理由に徳節斎を殺害したとなると、前述のように年代が合わない。
そもそも徳節斎の綱房殺害も「香渟(かぬま)聞書」「皆川正中録」には記述があるが、宇都宮広綱よりの赤埴修理亮に宛てた宛行状に「今度壬生中務大輔被為生害候付而、神山伊勢守別而励忠信走廻候筋目、内々使等致条、感思召候、仍奈良部郷被下之条如件、 六月四日赤埴修理亮殿  広綱」
永禄5年 1562年(常楽寺過去帳)に、綱雄殺害に際し、神山伊勢守を支援した功により赤埴修理亮に奈良部郷が宛行われている。
1557年に広綱が綱雄を破って宇都宮城へ帰陣しているので、戦いの後に壬生家臣神山伊勢守に内応させて綱雄を殺害せしめたか。これを、綱雄=綱房とすると1562年に既に殺害されている綱雄(綱房)を天正4年(1576)に徳節斎が殺害できるべくもない。
ここで、綱雄=綱房とすると義雄の徳節斎殺害理由が無く
氏勝=義雄とすると綱房は父となるが、年代が合わない。
「壬生筑後守 永正2年卒ス」「壬生筑後守胤業(壬生筑後守号名)大永3年卒ス」(2)/(1)と同人に2つの死去年があるが「永正6年(1509)に壬生筑後守綱重がすでに鹿沼に館を構えていたことは史実の上で明らかにされている。」
「東路のつと」(4)で1509年に宗長が鹿沼城に来訪し綱房・綱重に会っていること。「大永3年壬生筑後守綱重の死によって」「領主も綱房の代から綱雄を経て孫の義雄の時代になっていた。」(「鹿沼の氏神 今宮神社の歴史」)解釈と「東路のつと」(4)(享禄3年1529)で、既に綱房へ代変わりしておることにより綱重死去年を仮に大永3年(1523)とする。(「壬生系図(一色文書)」は推論によって書かれた部分も多く、今回参考とはしていない)
下記に筆者の推論として、次に系図を記してみた。
1. 村越前守に1571(元亀2年)に周長より官途状及び各書簡が発給されている。
つまり、この時、既に鹿沼城城主としての書簡なので、城主となる為の1576年綱房(綱雄)謀殺は成立しない。
2. 綱雄1562年(永禄5年)殺害の書簡と常楽寺過去帳より、義雄の父綱雄(綱房)殺害天正4年とはならない。
3. 「筑後守 弘治元年卒ス」(2)とあるが、前後の文脈・年代から「綱房」と仮定すると1555年既に死去している。
結果「香渟(かぬま)聞書」「皆川正中録」の義雄の周長殺害理由はなく、義雄父の謀殺の事実そのものが無かった事になる。
(※綱房1555(弘治元年)没後1556年綱雄が家督を継ぐ。(8)この時点で義雄はわずか5歳(行年39歳天正18年から逆算すると生年1551年)(6) ※前述の今宮棟礼によると天文3年で綱房の子・次男座禅院17歳とあるが、「皆川正中録」では綱重の次男であり、綱房は兄となっている。)
4. 川津石見守に宛てた皆川広照感状(天正7年2月20日)、福田弥太郎に宛てた壬生義雄宛行状(天正7年2月27日)より、村越前守に宛てた安堵状(天正7年3月15日)より、鹿沼城攻めの戦功により各文書が発給されている事により、周長は天正7年には生存し、鹿沼城攻めがあった事が伺われる。
5. 高野山清浄心院宛てに送った義雄の書状(天正7年4月26日)に「去る春二月当城鹿沼に移り候いて、近年の鬱憤を散じせしめ候」とあり、このとき徳節斎周長を打倒したのではないかと思われる。
いずれにせよ、各記録のこの重複と混乱は綱房(及び綱重)没年を作為的に操作したため起こったように思える。
また、本編の仮説に従った場合、従来の通説であった謀殺説の元となった後年書かれた各文書類は、その話の流れはともかく一部信頼性に欠ける部分がある。
鹿沼は義雄が継承することにより、宇都宮氏(豊臣側)ではなく、北条氏側に変換する。
時代の推移や勝敗ではなく、義雄としては仇敵宇都宮氏と足並み揃える事はできず、宇都宮城を奪還された綱雄の後、鹿沼城にあった周長(宇都宮氏)に実権をこのまま渡すわけにはいかない。
また壬生氏存亡をかけた佐竹義重との戦いの際、北条氏の援軍を受けて危機を脱し北条氏には恩義がある。
義を重んじた義雄の性格と、徳節斉周長とは、宇都宮氏(豊臣側)とは武門の意地にかけても相容れなかった、ということかもしれない。
■編集後記
筆者が義雄の徳節斉周長謀殺理由に疑問を抱いたのは、村越前守の身の処し方と相反するものを感じたからであった。
越前守直系の前当主よりごく幼い頃から戦の話の中で「どんなことがあっても生き延びる事が肝要だ。但し卑怯な真似だけは絶対するな。卑怯な真似をして生き残っても意味がない。」と言い聞かされた。
(卑怯ではないが、村家が時の支配者と反したのはたった一度。800年以上前戦に負けて落ち延びてきた当時の当主の妹と嫁ぎ先の一族を一晩匿って落ち延びさせた時だという。理由は、「情」ではなく既に戦意もない哀れな者達すら徹底的に執念深く殺戮する、頼朝の人とは思えない「冷酷さ」だった。鬼畜のように肉親同士で殺しあうその時代にあっても、それ程ひどい状態だったそうだ。
「因果応報」−たとえ当時であっても同じ人として最低限やってはいけないことはあり、それを踏み外すと必ず身を滅ぼす。
自身にいつかは返ってくる。と言われたものだ。
当時、屋敷に匿うか追い返すか家中は二分したが、当主が徹底して秘して守り通す事で落ち延びさせる決断を下した。露見すれば「逆賊」の汚名を着ることになり、一族郎党滅亡の危険もある。落ち延びさせてから2年以上生活ができるまで援助し続けたと言っていた。
この話を聞かされ続けた昭和時代でも、毎年恒例の墓参りの際、3つの粗末な石塔の墓の前で「絶対にこの墓の場所はしゃべってはいけない。本当は「逆賊」ではないが、「逆賊」に味方した事がわかってしまう。」とくどいほど繰り返された。
内心、昭和のこの平和な世で逆賊も何もないのではないか、とも思ったが、後年、当時でも足利や福島で、戊辰戦争によって逆賊の汚名を着せられ、大戦中白眼視されて生きていた子孫達が多数いたのを知り、確かに前当主の心配も大袈裟なものではなかったと思う。
現在、墓よりずっと集落に近いところにあった武具・刀剣類を埋めた塚のほうは、その町の観光施設として昭和60年に整備されている。墓の方は高さ40cm、60cm位の細い石造りのもので、元の名を連想させるものは彫ってはいない。今も人知れず形を変え苔と草木の中に埋もれているかもしれない。)

徳節斉が壬生家鹿沼城城主としていた頃、村越前守は家臣団の中でも徳節斉に近い位置にいた。戦国時代の武士が己の主君を決める理由は、利害・禄・主君の人格・家名存続と今の就職とさほど変わらない。
但し、江戸時代のような主家に対する忠誠心とは異にし、主君を変える事はあったが、家名存続がかかっているので、主君を決め帰順するには慎重であったはずだ。秤にかけるのは自分と一族の命であって給与ではないから。
主君側は在地領主の力を借りなければ城を守れない。壬生家は1,500年代にきたばかりで当時から遡って600年も前からいた在地領主や領民の支持を得るのは手を焼いた事と思う。しかもあくまで日光山のご神領だ。
      越前守も家名存続のためとはいえ、自分の兄を姑息で卑怯な手段で謀殺するだろう徳節斎に近しく従うだろうか?
この疑問が通説となっていた徳節斉による義雄父謀殺・義雄による徳節斉敵討ち説より、戦国時代の壬生氏を調べる動機となった。
この世の中には新しいことはあまりなく、人の一生には反復的な面が多い。歴史を知ることによって、それぞれの時代に生きた人々のものの考え方や見方を知ることができる。この人達は皆、私が現在生きているように、歴史の一時期に生き、呼吸をし、人生を経験した。その姿勢や生き方・苦悩を知ると私達の問題は取るに足らないものに思える。少なくとも経験者の観察のおかげでずっと解決しやすくなると思う。それが筆者がこれら記録を書きとめた理由だ。)

壬生家滅亡の後、村家は武士を辞め、帰農して同じく帰農した周辺の家臣達集落の名主的役割を担い、日光東照宮造営の際、冬の間宮大工を伴い星宮神社(後に石村神社と改名)を創建した。社中の彫刻は東照宮に劣らない立派なものである。後に村社としその神官と、また日光東照宮宮司も代々つとめ、明治まで村越前守を名乗った。
数々の激動の時代を越えながら、現在まで代々本家はその命脈を保っている。
武士をやめた理由は、時の盛衰は定まった。と聞いている。家名や土地は豊臣氏によって安堵されたが、前当主に繰り返し聞かされた言葉から察するに、戦というものにほとほと嫌気が差したのも一因かとも思う。
「戦は絶対やっては駄目だ。負けたら地獄だ。皆不幸になる。血の繋がった身内同士で争うことにもなる。できれば人と争わず、自分と家族を生かすときだけ戦え。」

                                                       2008.11.8   金原 明美 著
日光例幣師街道
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