日光例幣使街道〜街道宿ヒストリーウォーク〜
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古河公方
八幡太郎義家(源義家)・足利義康・尊氏を祖とする。将軍家2代目足利義詮の弟基氏の系統。幕府機関として鎌倉府がおかれたのが始まり。(鎌倉公方)京都将軍足利氏との間に対立が生じ、後に基氏から5代後の成氏より古河公方家を名乗る。義氏(成氏の5代後)に継嗣がいなかった為、古河公方は実質廃絶したが、名跡の断絶を惜しんだ秀吉により、義氏の娘と義明(成氏の孫 小弓公方)の孫国朝と結婚させ、後を継がせた。喜連川に五千石の所領を与えられ、豊臣・徳川時代は10万石級の厚遇を受け、江戸時代には喜連川氏となり、途中養子を迎えるなどして血統は絶えたが明治まで続いた。(子爵となる)秀吉が継がせたのは、名家の血筋を惜しんだとする見解が一般的だが、関東公方家の権威には未だ影響力があり、新たに関東を支配する徳川家康への牽制効果を期待したとの指摘もある。古河公方は元々将軍家ではなく将軍家別家としてあり、一度も将軍職を継承した事は無い。
堀越公方
八幡太郎義家(源義家)・足利義康・尊氏を祖とする。足利将軍家系統。将軍家15代の内代々14人が継承。堀越公方は7代8代将軍の弟、足利政知から堀越公方を名乗る。鎌倉府として下向したが、古河公方に阻まれ伊豆堀越に居を構えた事で堀越公方という。伊豆の足利政知死後、嫡子茶々丸は北条早雲に滅ぼされ、堀越公方としては2代で潰えた。(二男潤童子はその前に殺害される)僧となっていた足利政知の三男義澄が、11代将軍家を継ぎ、その後義澄の子と孫が12代13代と継ぎ、15代の将軍家を継承。本家直系の15代義昭(室町幕府最後の将軍 天正16年1588征夷大将軍を辞す)の子孫は、姓を変え一度足利氏発祥の地に戻り潜伏し、後に代々会津藩の客臣となり会津藩と供に会津戦争(戊辰戦争)で戦い、会津戦争後、一族全員武装解除され足利に護送された。数々の苦難を乗り越え、現在もその命脈と血統を保っている。
平島公方
八幡太郎義家(源義家)・足利義康・尊氏を祖とする。15代足利義昭の叔父義維から平島公方を名乗る。義維の子義栄が14代将軍となった。姓が変わり阿波において織田信長に対抗するため三好氏により擁立された事で、その後冷遇を受ける。足利姓に戻り1805年京へ居を移し、明治維新後、喜連川氏(古河公方)同様爵位を望んだが平民のまま近世を迎えたという。
関東公方(足利氏)その後
関東公方(足利氏)は武家政権を樹立した一族であるだけに、永きに渡り武士の尊崇を維持し続けた。将軍家本家のみならず、分家筋からも次代将軍を望み多くの御所・公方が名乗られた。その結果、その権威を利用しようとする輩も多く、また必要以上に警戒心を抱かせる事にもなった。足利氏各公方子孫は、太平洋戦争時より昭和20年終戦まで(4年間)再度の苦難の道を歩んだ。何故なら、平氏とともに足利一族は「国賊」と当時言われ、国賊として国定教科書に記載され、周囲より酷い白眼視を受けたからだ。(幕末にも「朝廷の正当性」を公に訴えるため、史上初めて「朝廷に弓を引いた」足利幕府を悪者にする事で、江戸幕府の弱体化を討幕軍は進めた。)現代に生きる我々には思いも及ばないが、数百年も前に其々なりに立派に日本を支配していた先祖を、国政によって数百年後に貶められ子孫に類を及ぼすような事は決してあってはならない。
足利義氏
最後の古河公方。(古河公方5代目)将軍家足利義詮の弟基氏の系統。北条氏康甥。梅千代王丸。1555年足利義輝より一字sを受け、義氏と名乗る。
上杉謙信
越後大名。上杉氏の下で越後の守護代を努めた長尾氏出身。初名長尾景虎(後に輝虎)関東管領上杉憲政から家督を譲られ上杉政虎と名を変え、関東管領に任命され後に政虎、不識庵謙信となる。天正6年3月13日没。周辺の北条・武田・織田らと合戦を繰り広げた。川中島の合戦は義のための戦として後世によく知られる。
鹿沼権三郎入道教阿
平将門を討った藤原秀郷子孫。佐野六郎右衛門尉行綱嫡子勝綱。行綱より鹿沼姓となり日光神領守護職となり鹿沼坂田山に小規模な城を築く。(正応5年1292年鎌倉時代末期 日光二荒山神社に寄進された「化け燈籠」銘文あり)後に鹿沼氏8代目教清は宇都宮氏と合戦、鹿沼氏滅亡(延徳3年1491)鹿沼氏一族は遠方に逃れ、各領主に仕え子孫は大田原・足利・前橋市に居住している。
神山伊勢守治持
壬生家家臣。1562年宇都宮広綱に内応して壬生綱雄を謀殺したとの資料あり。
佐野行綱
鹿沼権三郎入道教阿の父。神領の維持に不安を抱いた日光山に協力。日光山を信仰した佐野の領主の一族。南摩にも城を築いた武将。押原御所(鹿沼含む)を管理、今宮大権現の祭事も取り仕切ったと思われる。後に鹿沼姓を名乗る。
大門(壬生)弥次郎資長
周長弟。綱重の庶子といわれる。宇都宮家臣。天正15年(1587)倉ヶ崎合戦(旧今市市倉ヶ崎)にて、義雄・日光山・北条氏連合軍に敗れる。
高村越前守
久左衛門。越前守。押原郷における千年以上前からの在地豪族の一人。壬生家家臣団の一人となる。元亀2年(1571)鹿沼引田で乱と呼ばれるほどの合戦があり、その戦功を賞して、徳節斎から「越前守」の受領を貰い・引田の宮内も安堵されている。北条氏と共に壬生家家臣団として豊臣氏と戦い、敗戦後は帰農して、代々星宮神社(後の石村神社)・東照宮神官を務め、現在も命脈を保っている。
武田信玄
甲斐の守護大名・戦国大名。本姓は源氏。武田晴信。徳栄軒信玄。甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家嫡男。 川中島の戦いを行いつつ、信濃を平定し次々と領国を拡大。北条氏政と「甲相同盟」を結ぶ。上洛途上病没。元亀4年4月12日没。
徳節斎(壬生)周長
綱雄弟、綱房弟(綱重の庶子・資長の兄)いずれかといわれる。綱雄宇都宮在城時、壬生・鹿沼城権勢を掌握。両城の軍勢を率いて、軍功をあげる。綱雄の宇都宮退去後、鹿沼に在り、一族内の分裂を抑え、鹿沼城城主となる。日光御神領惣政所。基本的には宇都宮氏側であるが、北条氏と完全に敵対していたわけではなく、綱房に由来する権勢を築いたが、義雄に攻め落とされた。天正7年(1579)
豊臣秀吉
戦国の覇者。太政大臣関白。元織田信長家臣。木下藤吉郎。羽柴秀吉。天正13年関白となり政権を樹立。「惣無事令」を発し、全国の戦乱を私戦とみなし、裁定者としてのぞむ政策をかかげ、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。
前田利家
豊臣秀吉家臣。加賀藩主前田氏の祖。天文20年(1551)に14歳で織田信長に小姓として使え、元服して前田又左衛門利家と名乗った。後に柴田勝家の与力となるが、賤ヶ岳の戦いでは柴田軍として布陣していながら、合戦のたけなわで突然撤退し、かねてから旧交のあった秀吉の羽柴軍の勝利を決定づけた。鹿沼城正式な受け取りの為、天正18年7月17日に鹿沼に着陣している。後に五大老として活躍。
皆川広照
壬生義雄の義父。義雄と共に北条氏配下として豊臣氏と戦うが、小田原落城直前に豊臣氏に降伏する。一説によると、義雄毒殺の記録もある。後に秀吉より徳川家に家人として預けられ、近世大名として命脈を維持した。
源頼朝
八幡太郎源義家子孫。武家政権の鎌倉幕府を開く。鎌倉幕府初代征夷大将軍。奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。武家政権は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り存続することになる。日光山を深く信仰し、鹿沼を筆頭とする近在66か村を神領として日光山に寄進する。
壬生義雄
綱雄嫡男。中務大輔。上総介。日光御神領惣政所。壬生城にあり、後に北条氏の支援を受け鹿沼城にいた壬生一族の周長を討ち、壬生・鹿沼城を兼帯。後北条氏を背後に宇都宮氏から日光神領鹿沼を守るが、後に豊臣秀吉「惣無事の儀」により、北条氏配下として豊臣氏と戦い、北条氏と供に滅亡。継嗣はおらず一女死去後、正統は途絶えた。天正18年(1590)7月8日 行年39歳。
壬生綱重
壬生氏。筑後守。鹿沼氏滅亡後、宇都宮氏の後押しで鹿沼に館を持つ。宇都宮家臣。連歌師宗長と交友。大永3年(1523)、永正13年(1516)2通りの死去年あり。
壬生綱房
綱重嫡男。下総守。日光御神領惣政所。壬生城主、綱重死後、鹿沼城主。宇都宮家臣。鹿沼城築城。鹿沼城に今宮神社遷座し、宇都宮に二荒山神社造営。1555年死去。
壬生綱雄
綱房嫡男。壬生中務。綱重死後、壬生城主となる。宇都宮氏と次第に対立し、北条氏寄りになる。後、北条氏康・足利義氏の支援を受け、一時宇都宮(1549〜1557)を奪うが、芳賀・佐竹軍に降参し、壬生城に戻る。没年は、1562年(永禄5年)、宇都宮広綱を背後に神山伊勢守に内応され謀殺との資料あり。1576年(天正4年)周長により鹿沼天満宮で謀殺との説もある。
北条氏康 s
北条早雲を祖とする後北条氏3代目当主。戦国の風雲児北条早雲が戦国大名として成り上がったのは伊豆の堀越公方足利氏(足利政知。足利将軍家系統)を攻め滅ぼした事を機とした。甥の足利義氏を擁立し、古河公方の権威を押したて、北関東の領主内の争いに「秩序回復」を名目に干渉し始める。上杉謙信と「越相一和」を結ぶ。この時7男三郎を上杉謙信へ人質として送っている。(後、三郎は謙信の養子となり名を景虎(謙信の初名)と改める。もう一人の養子景勝(謙信の甥)と家督争いの「御館の乱」が勃発。1年の長きに渡る乱の火種となった。(現在の新潟県直江津)景虎は鮫が尾城で討死。上杉景勝は豊臣時代に米沢に転封、上杉家は豊臣・徳川時代を生き抜いた。)
北条氏照
氏康二男。氏照の指揮の下、壬生義雄は皆川広照らとともに小田原城「竹浦口」で戦っている。 小田原城 天正8年7月6日開城。切腹。
北条氏政
氏康嫡子。氏康死後、上杉と同盟を破棄し、武田信玄と「甲相同盟」を結び、下野を支配下に置くべく動き始める。豊臣秀吉「惣無事令」により、天正18年、小田原城は攻め滅ぼされ、ここに、早雲以来5代続いた後北条氏は滅亡した。切腹。
北条氏直
氏政嫡子。小田原城城主。赦免され、高野山蟄居。
日光例幣師街道
富士通オープンカレッジ 鹿沼校