日光例幣使街道〜街道宿ヒストリーウォーク〜
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■今宮神社の歴史
明治維新に神仏分離令が出されるまで、今宮神社は日光今宮大権現と呼んでいた。今宮神社は日光二荒山神社(日光山社の本社)を祭ったもので、二荒山に比べ創建年代が幾分新しいところから今宮と称したと伝えられている。
今宮神社由緒記によると、勝道上人は延暦元年(782年)3月、男体山の登山に成功、二荒山の大神を祭って間もなく、御所の森(現在の鹿沼市泉町私立北小学校北川校舎裏の石の祠)にも社殿を設け、日光今宮大権現と呼んだという。
鎌倉期、日光山を信仰した源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鹿沼を筆頭に近在66か村を神領として日光山に寄進、神領統治の都合上、日光山の役所が設けられた。 後に蒙古と元の大軍が襲来した際、幸い神風と呼ぶ大暴風の加護で敵軍を壊滅させることができたが、戦いで財力を消耗した幕府は衰微しはじめ、神領の維持に不安を抱いた日光山は、地方領主と手を結び、山内にも衆徒と呼ぶ僧兵が駐在するようになる。そうした中、佐野行綱を経て鹿沼権三郎入道教阿へ壬生氏へと鹿沼領主は推移し、天文3年(1534)壬生綱房により坂田山城内の現在の場所に遷座した。
延徳合戦の鹿沼氏滅亡後、鹿沼に進出した宇都宮(宇都宮成綱)氏も日光神領を私領化するわけにいかず、かつての家臣であった壬生氏と同盟し、壬生(綱重)氏の鹿沼進出(二男周長を宇都宮家臣とし?)を認めた。
壬生氏の鹿沼進出はこのときから始まり、永正6年(1509)には綱重がすでに鹿沼に館を構えていたことは史実のうえで明らかにされている。(連歌師宗長鹿沼城を訪れる)大永3年綱重死亡、後継者の綱房は宇都宮氏と同盟を結ぶ気はなく、鹿沼の館を持つつもりでいたところ、宇都宮忠綱から戦いをしかけられ勝利し、大永4年再び鹿沼の日光神領を守護することとなった。長男綱房が日光神領のうち近郷・近在の66ヶ村の支配をする。天文元年(1532年)坂田山に築城。(現在の御殿山公園)本丸(市営球場)領主御殿・武家屋敷(中央小学校)等、城の構築より在地豪族の実力を評価され、日光神領総政所壬生下総守と称して実権を握る。
天文3年(1534)城も整備され、押原鹿沼城、または亀城と呼ばれた。そして日光山の代表者にふさわしく、城の守護神として、御所の守から日光今宮大権現の社殿を城内の曲輪(くるわ)に移した。 これらの神領から小作米として取り立てる米は社寺に配分され、領主である壬生氏は、壬生領を生活の基盤とし、鹿沼領からはわずかの棒禄米や上納金を取り立て、兵力も僧兵の力を頼っていたようである。
(鹿沼市内中ほどに鳥居跡町という町がある。鳥居跡町は「とりいどちょう」と読む。地名の字のとおり、鎌倉時代、この場所に日光山の遠鳥居が建てられたという伝承がある。勝道上人が日光開山した後、この地に「えのき」の木を4本植えたと伝えられ、そのえのきの跡に、1957(昭和32)年日光二荒山神社から御神体を迎え、二荒山神社が祀られた。この小さなお社は、現在は二股に分かれた街道の内側に鎮座している。文字通り、鹿沼は日光山の入り口となっていた。)
■壬生氏の鹿沼支配
宇都宮氏権力は、他の戦国大名同様、内部で抗争が起こり、後北条氏(氏康)・足利義氏(1552年古河公方就任)の政治的な思惑もあいまって、1557年壬生綱雄は占拠した宇都宮城を追いやられた。(後に背後に宇都宮広綱のいる壬生家家臣神山伊勢守によって1562年滅ぼされることとなる。)鹿沼城を守っていた叔父(仮説)の徳節斎周長(宇都宮氏側)がそのまま鹿沼を掌握する。
北条氏康は公方の権威を前面に立て、北関東に触手を伸ばし始める。それに対抗するように越後の長尾景虎(後の上杉謙信)は関東進出の動きを活発化させる。 1561年関東管領に就任した謙信への対応で、北関東の国人領主らは、真っ二つに別れた。佐竹義重を明主に宇都宮広綱・徳節斎壬生周長・他諸大名は反北条勢力として。皆川広照・壬生綱雄は北条氏を支持し、当然の帰結として佐竹・宇都宮氏らと対立したと思われる。 1559年周長は鹿沼城を本拠に合戦を繰り返し、鹿沼支配の体制固めに奔走していた。綱雄傘下の中小の国人領主たちは壬生城を本拠とする綱雄(もしくは義雄)にそのまま従うか、鹿沼を支配する周長=宇都宮氏につくかで対応がわかれた。神山伊勢守・大門(弥次郎資長)氏もこの時に壬生氏から離れ宇都宮氏につく。そうしたなか、引田に本拠をもつ高村越前守も周長に従う道を選んだ。(人物紹介ページへ)
引田の高村家は現在数点の中世文書を所持している。

周長の充行状にみられる「宮内」地名が現在でも確認できる。小字「宮内」は、高村屋敷の北側に位置し、星宮神社(現在は石村神社に改名)が祀られる。神社の南側には、鹿沼市街地と古峰ヶ原とを結ぶ主要地方道鹿沼日光線が東から西へ「宮内」を分断するように走る。直交して北から県道板荷引田線、南から県道入粟野引田線が延びている。ちょうど宮内は東西南北から道をあわせる交通の要衝だったと考えられ、引田から北に向かい板荷を抜けて日光にいたるこの道沿いには龍階城が存在した。戦国末期の特徴を備えた縄張りなど、引田と「乱」のかかわりが想定される。(参考:「城と城館」)また、県道を南へ進み、大芦川を越えると、やや距離はあるが道の西側には精巧な縄張りをもつ金ヶ沢城がある。
こうした場所に位置する引田が「乱」の舞台になった。
綱雄の遺児である義雄を中心にした壬生城勢力は、日光山と結んで鹿沼と日光を支配する周長と闘争を繰り広げていた。その過程で起きたのが「引田の乱」だったと考えられる。(「東州雑記」の日光・壬生和議より)
永禄12年(1569年)上杉謙信・北条氏康が和解し、越相一和が成立。亀元2年(1571年)氏康死後嫡男北条氏政は今度は甲斐の武田信玄と手を結んだ。(甲相同盟) 亀元3年北条氏政は多功原(宇都宮市上三川町)で佐竹・宇都宮と対陣した。以後、下野は北条勢力の脅威に、直接さらされることになる。翌年、小山氏支配下の栗(粟)志川を北条勢が攻め、壬生徳節斎周長は小山氏を支援、北条氏と敵対。ここに至って反北条側(宇都宮・周長)と北条側(に傾きつつある壬生氏)の対立の構図が完成したのである。
このような状況下、徳節斎周長は鹿沼の支配をテコに、日光山内にも深く関与し、日光町(日光山門前町)を自らの支配下においていた。商業上での問題に対し実質的な許認可権を持っていたと考えられる。
また、会津においては商業上の取り計らいをする事により、報酬を受け、門前町の商業活動を事実上取り仕切っていた。
そんな中、天正4年の日光山での大納言・周長の対立(絹衣総論)に、成年に達した壬生義雄が和睦を命じられ壬生氏もようやく表舞台に復帰する道が開けてきた。
古河公方足利義氏の承認を得て、背後にいる北条氏政の影響下、勢力を回復しつつある義雄の存在は反北条氏側の北関東の領主たちにとってひとつの脅威でもあり、綱雄旧領の鹿沼を支配する周長にとっても大きな政治的課題でもあった。鹿沼を掌握する事は日光山の入り口を掌握する事を意味する。鹿沼という場所は信仰的な意味においても、日光山掌握という戦略的な意味においても重要なポイントとなった。天正5〜6年にかけ、壬生・鹿沼周辺でしきりに戦争がおこり、そのたびに土地の人々に容赦ない略奪が行われていたのである。

■義雄 鹿沼を掌握す
義雄は天正7年(1579年)皆川城主皆川広照等の協力を得て徳節斎周長を打倒し、鹿沼城に移り住み宿願を達成する。日光神領総政所に就任、名実ともに鹿沼の支配者となった。(鹿沼戦記異聞ページへ)
義雄は、周長に加担した者の所領を没収するとともに、周長打倒に戦功のあった者には本領を安堵し、あらたに所領を宛がうなど鹿沼領の仕置きを進める。家臣福田弥太郎には日名田下之内(日向)家臣高村越前守(天正7年義雄に帰属)には引田の地(引田一帯)を安堵するなど、鹿沼領及び日光山に対する支配権を掌握していく。

仕置きを終えた義雄は、神山伊勢守綱勝(後名貞勝)を鹿沼下総守綱勝と改名させ、鹿沼城城主として据え、自身は壬生城に戻っていたと思われる。しかし、天正10年代北条方と反北条方との抗争激化する中、綱勝が反北条方に内応したこともあり、綱勝追放後、再度鹿沼城城主となり、天正18年壬生氏滅亡まで、壬生城と鹿沼城の城主を兼帯していく。
■後北条氏と秀吉の北関東侵攻
天正7年徳節斎周長を倒して以降の壬生氏は、反北条方と北条方を二転三転した末に、天正13年の12月以降北条方になっていったと思われる。同年4月、結城・佐竹・宇都宮氏連合軍に攻められ、城際まで攻められ「坂田その外町中を焼き破られ」(鹿沼市史 資料・古代編より)ほどの痛手を蒙った。翌年4月壬生領を宇都宮・佐竹氏に攻められ苦戦を強いられたところ、急変を聞いた北条氏直が出馬してきたため、ことなきを得た。同年7月8月も鹿沼領(現在の鹿沼市鳥居跡町)・壬生領を攻められたが、北条氏よりの鉄砲衆・水海衆の支援を受け、15年には倉ヶ崎合戦(旧今市市倉ヶ崎)により壬生氏一族の壬生弥次郎(大門弥次郎)との攻防戦に際し、北条氏直に援軍を申し入れ、氏直叔父北条氏照を大将として軍勢の派遣を受け、最後に北条軍も出陣し、壬生氏・日光山衆徒・神人(じにん)などが倉ヶ崎城を攻めて陥落させた。 このように、壬生義雄は北条方に属し、天正末期まで宇都宮・佐竹氏などと抗争を繰り返す。この頃思いも及ばなかったことであるが、北条氏をはるかに上回る脅威が忍び寄っていたのであった。すなわち戦国の覇者豊臣秀吉の西からの侵攻である。
天正13年秀吉は関白となり政権を樹立すると同時に、すべての戦国主間の戦争=領土紛争を私戦として禁止し、領土の裁定者としてのぞむ政策をかかげた。すなわち「惣無事の儀」と呼ばれるものである。この「惣無事令」による領土裁定を受諾して上洛した領主は豊臣大名となって領土知行を確定されるが、違犯した領主は豊臣軍による「征伐」の制裁を受けるというものであった。
天正15年、関東・奥羽全体の諸大名に対し、惣無事令が発令された。かねてから東国一円に覇権を拡大する機をうかがっていた秀吉は、北条氏攻撃の口実を得ようとしていたのである。
■義雄 小田原役参陣と壬生家滅亡
同16年頃から、氏政・氏直親子に上洛を再三命じ、これに従わないとみるや、翌年上野沼田領をめぐる北条氏・真田氏との領土紛争に介入。裁定をしたが、北条方が名胡桃城(群馬県月夜野町)を攻略するという事件を起こした事を、北条氏の私戦停止命令違犯とし、北条氏攻撃の準備にとりかかった。 北条方もこれを受けて秀吉との対戦を決意し、北条領国内家臣・従属する他国衆に向けて小田原への参陣を命じ、迎え撃つ態勢をとった。 天正18年3月1日(1590年)、秀吉は大軍を率いて京都を出発。北条氏の本拠小田原城は関東各地の北条方の城が次々攻略される中、3ヶ月あまり持ちこたえ抵抗を続けた。この間、壬生義雄は北条氏照指揮下、皆川広照らとともに小田原城の「竹ノ花口(竹浦口)」を守ったという。
小田原の北条氏直は、天正18年(1590)7月5日秀吉に降った。小田原城豊臣秀吉の前に7月6日開城。
壬生義雄天正18年7月8日小田原帰陣中にて病没または毒殺にて死去。行年39歳。(鹿沼戦記異聞ページへ)
なお、鹿沼城の南西、雄山寺には家臣のたてた義雄の供養塔がある。
(鹿沼城・壬生城は4月下旬から5月初旬に、宇都宮・佐竹氏連合軍の前に開城した可能性が強い。)
秀吉は同17日に小田原を出発して奥州に向かい、宇都宮には26日に到着している。
そうした情況の中、前田利家が鹿沼に鹿沼城正式受け取りの為同17日に到着した。
鹿沼城 天正18年7月17日開城。鹿沼領のほぼ全域は、後の徳川の時代まで(1601年)結城秀康領(豊臣秀吉養子・徳川家康実子)となる。(上石川村:宇都宮国綱領) 義雄の死は、壬生家臣団にとって大きな衝撃であった。義雄には後継者もいず、彼の死はすなわち壬生家滅亡を意味し、残された家臣達にとって今後の身の処し方は大きな問題であった。
秀吉は兵と農の分離を強行する兵農分離政策を推し進めた。これにより、壬生旧臣は外の大名へ仕官して武士の道を歩むか、土着して農業の道を選ぶかの選択をする。大多数の壬生旧臣は壬生氏の旧領である壬生・鹿沼に土着する道を選んだ。土着した旧臣は新しい領主の支配下に組み込まれることになったが、それとは別に、壬生旧臣達の私的な集団(壬生旧臣団)を形成する。義雄の近親者である昌淳・未亡人おこうの方・娘伊勢亀を主としてそれぞれに集結。伊勢亀の死を境に、嘉永6年(1853年)頃になると壬生・鹿沼を中心に下野各地だけでなく、常陸や上野など関東一円に広がりをみせ、その数も増加していった。
(外の大名へ仕官した中に南摩氏がいる。領地没収は、南摩氏が領主支配を維持したまま幕藩体制に移行する道を閉ざした。そのため、死去した南摩綱善の子泰綱は、大名へ仕官することによって家名存続を目指し、福島県磐平藩の鳥居氏に仕えて、その地で生涯を閉じた。泰綱の子俊綱は保科家に仕えて、1642年会津に移って550石を給されている。そのため子孫は会津に居住し、南摩氏は会津藩家臣として幕末を迎える。会津に移った南摩氏は勤番で江戸に出る際、勤番を終えた帰りに上南摩村に立ち寄ることを旧例としていた。会津へ移ったあとも、数年に一度は上南摩村の菩提寺の広厳寺や城山を訪れ、所縁を確認していた。南摩に残された旧臣達と南摩氏は対面して主従関係を再確認していたという。1846年には南摩綱善三百回忌の法会が上南摩で催され、会津藩士であった南摩舎人助と次男によって行われている。領地の屋敷と畑・山林(旧城地)は、南摩氏から旧臣らに預けられる形をとり、預かる代わりとして南摩氏に非常事態の軍役が発生した場合、軍役を果たすことを誓う連判が行われていた。畑の耕作は旧臣達で分担して行われ、収入は郷金として運用され、一部の収入は幕末まで会津の南摩氏の元に送金されていた。(安政4年1857年)南摩氏と旧臣のこの関係は一般化することはできないが、領主と民衆の関係で極めて貴重な事実を伝えていると思う。(参考:「鹿沼市史」)
■今宮神社再建と屋台
壬生氏滅亡によって、荒れ果てた今宮大権現は慶長13年(1608年)、ついに再建された。壬生旧臣の多くは鹿沼にとどまり、慶長5年から鹿沼を統治した幕府代官大河内金兵衛秀綱に協力、田町・内町を中心に新しい町づくりを始めた。13年になると基礎的な町割りができ、戸数も200〜戸に増えたが、まだまだ寂しい町並みであった。代官、壬生旧臣・大谷常喜斉・山口四郎右衛門が発起人となり浄財を集め、今宮の社殿再建を計画。3月17日に完成した。 寛永12年(1635年)になると、日光東照宮の造営(1616から造営1617年完成。1634年大造替工事)で、鹿沼宿は江戸と日光を結ぶ、壬生道中の要所として発展し始める。そこで町並みを整備する必要に迫られ、今宮大権現の社殿を高台から今の位置に移し、参道を南向きにつけたという。この時、神明造りであった建築様式は、東照宮建築の影響を受け権現造りに手直しが行われた。寛永年間以前の参道は、城内から入る道と東側には壬生氏在城からの桜の馬場があった。今も通路として残っているが桜の木はなく、久保町大通りと神社東側の路地をつなぐ通路になっている。
■今宮の祭礼始め
社殿再建発起人の山口兼次の子孫、山口安良が先祖から伝えられた話として「押原推移録」の中での記録を要約すると、「その年の夏、ひでりが続き、氏子や近郷の人々が今宮神社に集まり、雨乞いをすること3日、一天にわかにかき曇り、激しい雷雨があり、霊験あらたかな氏神と敬う。今宮神社は、日光三社権現を祭った神社なので、日光二荒山神社の弥生際を踏襲、例大祭は3月に行っていたが、雨の上がった6月19日夕べを宵祭、20日を祭礼当日と変更。また祭礼は毎年やったが、いつしか3年に一度となって屋台を繰り出すようになった。」
(参考:今宮神社の歴史)
■付け祭りと彫刻屋台
現在の今宮神社例大祭は、慶長13年(1608年)の社殿再建から始まっている。
幕府の支配地であった鹿沼宿は安永5年(1775年)宇都宮戸田領となった。その頃には、例大祭の性格も神事的なものから氏子のレクリエーション的な要素が加わり、付け祭りが盛んになった。
この時代、壬生道中・例幣師街道の宿場町として鹿沼は発展を続け、人口も慶長年間のころより3〜4倍以上に増え、2,400〜人となった。(現在の鹿沼旧市民の多くはこの頃、他の地より移住してきた人々が多い。)例大祭日には氏子は解放され、集合、飲酒も自由で祭りを楽しんだ。
最も古い記録によると最初の屋台は、移動できる簡単な屋根つきの吹き抜けの台で、花などで飾りたて彫刻はなく「踊り屋台」とも呼ばれ、踊りの舞台であった。(安永9年1780年)
寛政に入ると、鹿沼宿中心仲町で寛政6年(1794年)現在の華麗な「彫刻屋台」の祖形が出来上がった。かつての「踊り屋台」と比較して、芸場が狭く、そのため簡単な踊り台を設け屋台の前面に据え、狂言や踊りを演じた。
文政元年(1818年)各町内が競って彫刻屋台に作り変えていった。
天保の改革(1841年)で在郷芝居は禁止されたことにより、各町内の「意気」「力」の競い合いは屋台を飾ることに移る。これに日光山社寺の華麗な彫刻の影響も加わって、全国でも珍しい、前面彫刻のみによって飾られた屋台が完成していくのである。(祭礼記録によると、飢饉・黒船来航・幕府緊縮令が出された年は、祭礼は中止され、江戸時代後期には4,5年の一度のこともあり、その間に屋台を新調した町内もあったが、祭典費用の強制取立てから夜逃げ同然、町内を立ち退く弊害が生まれたという。)

彫刻屋台・天棚をもつ地区の人々は、しばしばその装飾の見事さを日光東照宮になぞらえ、説明してくれる。
屋台・天棚の多くは、東照宮造営にあたった職人が冬、仕事ができないので日光山から里におりつくったものだ、という伝承を残す。
しかし、建造年代を考えれば、それは史実ではない。

江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した上久我(現、鹿沼市)出身神山政五郎、田沼町(現、佐野市)出身石塚直吉をはじめ地域に育った彫刻師による屋台・天棚も多い。
彫刻銘で最も古いのは天明元年(1718年)であるが、江戸木彫三流派の一、後藤系磯辺一門のものである。以降後藤系の地方彫刻師の手によるものがほとんどであるが、ただし、鹿沼市上田町(文政5年1822)・仲町(天保7年1836)、日光市大桑町、宇都宮市上桑島町の天棚の彫刻は後藤周二正秀の作品である。
正秀は19世紀初頭の東照宮修復時の彫刻師で日光五重塔彫物方棟梁としても腕を振るった。
屋台と天棚を装飾した職人たちは、確かに日光東照宮を意識していたのである。
(参考:「鹿沼屋台と祭り囃子」「栃木県の歴史散歩道」「彫刻屋台」)

■現代の鹿沼秋祭り
今宮神社の祭礼は昭和23年から市制施行日に合わせ10月10日となり、現在では10月第二の土曜・日曜日に毎年開催されている。
祭礼スケジュール:例大祭一日目
鹿沼秋祭り 午前10時 大祭執行 神社本庁の献幣師が幣を献じ、祭典は奏楽の中で厳かに行われる。
午後1時 拝殿に神輿を奉置、御神霊が移される。
午後3時 付け祭り 各町屋台が一番町を先頭に神社に繰り込む。
繰り込み終了後 代表者による奉告祭、祭礼囃子の奉納
午後5時30分 提灯に火が入る。いよいよ屋台市中引き回し開始。
例大祭二日目
ご巡幸 午前7時
祭典執行 猿田彦大神(天狗の面をつけ大神に扮する)、宮司、氏子総代会会長が神輿とともに数台の車に分乗。氏子町の会所を巡拝、町内の安全祈願を行う。
還御後 太々神楽の奉納。
午後1時 付け祭り屋台 組町を中心に、市内をパレード。
午後8時 例大祭終了。
(屋台紹介ページへ)

■今宮の名所と建物
権現造りの社殿
神社の社殿は広大ではないが、バランスが良く保たれ、美しい宮居であるとされている。
慶長13年再建。寛永12年現在の場所に移された。一度も火災にあった事がなく、修理を重ね370年余の今日美しい社の姿を見せている。
流造り風様式を備え、外部の羽目板には見事な彩色彫刻が施されている。
作者は屋台彫刻の名手、石塚直吉吉明(屋台彫刻:下田町屋台)。中国の故事や神武天皇を画題にしているという。
社殿全体の様式は、権現造りと呼ばれる特殊な神社建築である。その代表的建物は日光東照宮であるが、拝殿、中殿、本殿が一棟に構成され、純粋な和風神社建築とはイメージを異にしている。
唐門(社殿入り口)栃木県重要文化財(嘉永2年1849)
唐破風附き切妻造り、総ケヤキ。二代目磯辺儀兵衛隆信(大平町の名工)の彫刻。梁の末端には見事なボタン獅子が力強く彫刻され、正背面の斗棋間に竜、中央斗棋間にはキジの彫り物が施されている。
石の鳥居(万治3年1660)
神領長畑(旧今市市)の御影石を使用した「春日鳥居」。(高さ6.1m。通り幅4.85m。柱回り1.97m)
屋台繰り込みには必ずここを通るので、鹿沼では鳥居にぶつかる山車風の高い屋台は昔も今も製作されない。
今宮の別所灯篭
権現曲輪の石段下に、幕府代官鈴木平十郎が奉納した石燈籠が一基保存されている。この燈籠は神宮寺に奉納されたものだが、江戸時代の鹿沼宿の人々は、代官の徳を慕って「今宮別所燈籠」と呼んでいる。
平十郎は延享元年?(1744年)から3年間、鹿沼と西鹿沼を治めたが、たまたま代官として着任した時は、鹿沼宿の人々が、本陣の火災で幕府から300両を借用し、返済に苦しんでいたところだった。
それを知って、幕府に願い、借用者が差し出した田畑、屋敷の代金を支配地の村々に貸付け、元金・利子を運用したので、ほどなく返済、余剰金を宿場費用にあてるよう、永年の積み立てと運用を命じた。
38年後の天明2年(1782年 天明の大飢饉前年)には、利子だけで年々90両となり、宿場の受ける恩恵は大きく、燈籠に参拝する人が多かったという。 
            (参考:「鹿沼の氏神 今宮神社の歴史」)
■例幣師街道寄り道話 「天明の大飢饉」の巻き
天明3年「天明の大飢饉」が下野国を襲う。東北のように直接餓死者だすまでに至らなかったが、年貢はほとんど上納できない状態の村が多く、米価が高騰するなかで、米の安売りを求める民衆が酒造家や米国商を打ち壊す食料一揆が足利・栃木・佐野・鹿沼・真岡・大田原・芦野等で発生し、これを機に離農・離村者がいっそう急増する結果となった。
こうした農業の不振と農村の衰微に危機感をもち、再建に尽力し、技術改良に工夫を凝らす人々(小貫村(茂木町)の小貫万右衛門・下蒲生村(上三川町)の名主仁左衛門)も現れた。
小貫万右衛門は、天明3年の凶作と飢饉が襲った村の惨状を目の当たりにし、農家として過去の経験を学ぶ事の必要性、そのために農民にとっても読み書きの最小限の教養が欠かせないものであることを痛感させられた。その日の万右衛門の日記には「それ人間と生じては、書き読みを学びたもふべし。文は万芸の源にして、天地開くる時より以来、行かずして名所を知り、老いずして古きを知るは、実に世に伝ふ鑑なり」と述懐している。
その後、自家再建の努力は、『農業全書』で先進技術を学び、自分の体験を詳細な記録にとりながら続けられた。
その努力の結果は、農家に対し農家経営の基本と日常生活の心得を説いた『農家捷径抄(しょうけいしょう)』にまとめられた。(文化5年1808)
(1)農民としての本務(2)家族と子供の教育(3)他人との付き合い方(4)農業技術の積極的な学習(5)農業経営諸般の工夫などからなり、農家は主人みずから『農業全書』に学び、農事帳簿に記録をとり、これを元に毎年工夫を重ねるべきこと。
さらに地元の巧者にその土地ならではの方法を尋ね、土地にあった農法を工夫すべきであると説いている。
子供の教育の必要を力説し、孟子の性善説をとり、教育を怠り悪を蔓延らせるのは、雑草をのぞかず作物を駄目にするなまけものの農業と主張する。
農家の経営は家内労働で無理なくこなせる小規模経営が良いとし、収支計算のモデルを例示している。
『農家捷径抄』は出版はされなかったが、村役人をつとめる万右衛門の子孫に長く伝えられ、村政にも生かされた。
(阿部昭「下野の老農小貫万右衛門」「栃木県の歴史」より)

子供の頃身体が小さくで頭が大きいので、土間からよく転んだ。転んだ分だけ利口になると教えられ、工夫をこらして少しづつ転ばずに降りられるようになった。あれからン十年、やっぱりときどき転んでは明日の糧としている。
日光例幣師街道
富士通オープンカレッジ 鹿沼校
(有)ドゥコムアイ